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フルカワトシマサ
'59年大阪生まれ。20代半ばよりソロ・パフォーマンス活動を始め、各地のアート・フェスティバル等に参加。身体を重視した即興性の強いパフォーマンスを展開、好評を得る。'92年、代表作「Walking Step」を持ってヨーロッパ各地を転戦。'94年より「Walking Step」をベースにしたコラボレーションワーク「Walking Steps」を開始。古書店クライン文庫を経営。
 フルカワトシマサというパフォーマーが久しぶりに立ったステージ(1999年10月26日、OMS)は、やはり無茶なものだった。奥さんが次男を出産したシーンのビデオを流した後で、擬娩とでもいうのだろうか、彼が自ら出産をシミュレート、赤と緑の塗料まみれになったまま友人と携帯電話で会話する、というもの。クライマックスはやはり擬娩のシーンで、大きなビニール袋の中に入り、赤と緑の塗料を入れたガラス瓶を叩き合せて割って全身を塗料でもみ、股間からダンシングベイビーの人形を出すという、言ってみればベタな構成なのだが、一つにはその題材の衝撃力、もう一つにはフルカワのそのことに対する祈りのような思いが切実に伝わってきて(というとフルカワは照れるだろうが)、素直に感動した。彼のパフォーマーとしてのよさは、このようなストレートな昂ぶりを臆面もなく出せることにある。
 パフォーマンスではなくハプニングと言ったとき、そこで何かが起きる(happen)ことの一回性が、いっそう貴いものに思われる。ぼくたちの目の前にナマで行われることは、すべて事態の生起という意味でハプニングと呼んでいいだろう。(PAN PRESS)

 そのような姿を最近目の前にしたことがあったことを思いだした。フルカワトシマサのパフォーマンスプロジェクト「Walking Steps」(7月12日、扇町ミュージアムスクエア)だ。彼がここでただ歩き続けるだけだということは、ほとんど皆が知っている。しかし彼はなかなか歩き出さない。照明も音楽も、すっかり用意ができているのに、フルカワはじっとうつむき凍っているようだった。
 人がある行為を始めるためには、いったいどのような契機が必要なのだろうか。それをフルカワは、たった一人のパフォーマンスにおいて自分で見つけなければならない。あの光の中で(照明=岩村原太)時間にわが身を沿わせ、その時間を自分が進ませるものとして第一歩を踏み出すために何を探っているのかと、見る者をはらはらさせる数瞬だった。水を張ったステージをぼくたちは取り囲んでいた。フルカワは時折足の指先を小さく動かして、水面に波紋を与えていた。その水紋はライトに反射され、壁や天井に美しい波紋を投げた。神経質に細かい動きを見せる彼は、とても無防備な、不安げにも見えるような表情で、観客を何度かぐるっと見つめたりした。高橋睦郎の詩集『動詞?』に「立っているものが悲劇的に立っているなら、腰掛ける者も悲劇的に腰掛けているのでなければならぬ。歩き出す者も悲劇的に……以下同じ」という断章があるのを思い出した。これから始まる何ものかに耐えているような姿勢だったように思う。
 いきなりの右足だった。いきなり右足を振りかぶる(足を振りかぶるというのはおかしいのだけれど)ように高く上げると、はずみをつけて渾身の力で水面にたたきつけた。大きなしぶきが客席まで跳ね上げられ、ようやく世界は動きを与えられたのだ。見ていてふと、なんだかとてつもないものに立ち会ってしまっているという、恐れのようなものにとらわれた。フルカワの足が地を打つこと、それは地を鎮める作業である。詩が舞踊であるのなら、この歩行は存在を超えるものに通ずることのできる、唯一の祈りの道筋だ。歩くという、飾りのない行為を提示することで、フルカワは人間の身体の動きのはじまりに遡る。そこには劇もなければ美もない。身体と存在がナマに曝されただけのことだ。技術的にはフルカワとぼくらを隔てるものは何もない。だからこそいっそう、ぼくたちはぼくたち自身のはじまりをここに見ることができたわけで、それがぼくの感じた恐れのようなものだったのだと思っている。
 光もそうだった。岩村の創り出す光がステージの水面を反射させたり、はじき出されたしぶきをきらめかせたりする美しさを、驚きをもって眺めた。光が実体の反射としてではなく、ものそのものとしてうねり、量感が移動するのが見えたようだ。フルカワの行為が身体や存在の初源を見せたように、岩村のライティング・ワークは光の物質性を立ちのぼらせることによって、このステージを何人かのアーティストのではなく、身体と光のコラボレーションとすることができた。                   (JAMCi '95.10)

 わたくしは何によって悲哀を感受する存在であるのか
 6月16日、仕事を終えて大阪の中央公会堂へフルカワトシマサ・パフォーマンス・プロジェクト[Walking Steps]を見に行く。地下鉄淀屋橋から走りに走ったが約20分遅れる。
 三階の中集会室に入ると、ややエキセントリックな音楽と炎の色の光の中、既にフルカワは足踏みをしていた。それは時に楽園から追放されたアダムのようであり、また苦行僧のようでもあった。フルカワ自身、この場所と行為について「中央公会堂の三階に、十六本の柱に囲まれた不思議な空間がある。天井からは、三つの巨大なシャンデリアが、忘れ去られたように、ぶらさがっている。ステンドグラスを透して、静かな時の流れが、古ぼけた木の床面を照らし出す。色褪せた華やかなりし頃の残像が残る。今は、からっぽの何もない空間である。そんな場所で、足踏みをする。ただ、ただ、ひたすら足踏みをする」と説明している通り、洗練された音楽(千野秀一)や照明(岩村原太)があったとはいえ、一時間足踏みをするだけのパフォーマンスである。われながら奇妙なのだが、会場に一歩入った途端、一つの惨劇の既視感に襲われた。そしてある瞬間、僕は深いかなしみのような強い感情に囚われたのだ。
 このような唐突な深いかなしみは、陸根丙(ユック・クンビョン)のビデオ作品を見ていた時(六月一日、キリンプラザ大阪「リカーレント・ワールド」)にも僕を襲った。軍隊やデモや草原や変形していく人の顔がモノクロで延々と、しかし一つ一つは極めて短く断片的に映し出される。そこに映されているものがどんな事件につながるものか、ユックにとってどんなに意味深いものかは知らない。しかし、ある惨劇らしき光景が断片化を余儀なくされて粉々になり、モナドとして再び調和されるのを見せられて、いつか僕も自身のありえた/ありうる惨劇について、ユックと同じ作業をなぞっている。スクリーンの上の方に映し出された少女の眼は、ユックと僕のその作業を見ているようだ。その眼を見続け、見られ続け、次々に映し出される光景を見続けた僕を、突然深いかなしみが襲ったのだ。
 きっと僕はその時フルカワの足となり、ユックの眼となって、同じ地面を踏み、同じものを見ていたのだ。足踏みという初源的な、誰のためでもなくどんな他者をも必要としない作業を、フルカワは営々と続ける。聞けばフルカワは父親の交通事故死を契機にこの個的な作業を始めたということだ。悲劇はあくまで隠されているが、それに裏打たれたひたすらで単一な行為の持続は僕の悲劇を呼びさまし、同調させ、引きずり込む。ある強い衝撃に襲われた時、僕たちはそれを自らの内に抱えきれず、知らぬ間にモナドに分解して、日常的には咀嚼したふりをしているが、それが再び集積して襲う時、その衝撃はこれほどまでに大きなものだということを鮮やかに見せてくれた。凄絶だった。
 
良き理解者。無断転用。感謝。